なんか、ね。

『自ら焼かれに行って、
 「焼かれた!」って
 文句言ってる、人がいるの』
その手の人種に近寄ったら、
焼かれるに、決まっとろうが!

ね、大人の特権。
「交流する相手を、
 選ぶことができる」
子ども、特に小学生あたりだと、
しょうがない。
クラスのみんなとは、
仲良くしないと、いけない。
けど、大人ならば、
好きに距離置いて、いいんですよ。

だから、あたしは、
昔の女装コミュとは、距離置いてるし。
ついでにAAからも、距離置いてるし。
AAには、焼かれまくったからなぁ…

だから、近寄っていく、
「理由が、わからん」
職場と家との往復の間に、
その手の人種に、出会うか?
出会ったとして、
問題になるほどの、
交流になるか?
「ならない、でしょ」

まー…
自己肯定感だと、思う。
自己肯定感に関しては、
明日、いい本が届くので、
そっちで触れようかと
思ってたんだけど、ね。

あたしの場合、
「順序が、逆らしい」
先に「周囲に、認められてしまう」
あ、いいんだー…と
思い始めて、
自分が確立される、感じ。
それこそ、幼稚園の頃から
認められて来たって
人、いないと思うから、
他人にはそれ、
求めませんけど。
まぁ、
「生まれ持った、社交性」
とか、そういうもの
なんだろうなー…とは、思う。

『認められるためには、
 相手を認めないと、いけない』
至極、当然なことだと思うけど。
認められないんだったら、
距離、置けばいい。それだけ。
ただし、認められない。
それ、「しょうがない」

そして、ケンカを売るからには。
「負けて、
 相手に向かって、土下座して、
 地面に頭、打ち付ける」
ところまで、
覚悟しないと、いけないでしょ。
その覚悟を、しているから、
「真剣で、正面から、
 相手を切りつける」
ことが、できるんでしょうがー。

こういうことに、関しては、
セクシュアリティは、関係ない。
『人間として、どうか』
だと、思うけど。

まぁ、「真剣」は、
出さない方が、いいんだろうな。
小学校6年の時、
初めて切ってみて、さぁ。
すんごい、切れ味で、
自分で驚いたもん。
けど、正々堂々の、
正面からの真剣でしたので、
怒られも、悪く言われも、
しませんでした、けど。

あ。そういうことか。
「自分が持つ、真剣」と、
「自己肯定感」って、
表裏一体だわ。
「自分は、こうだぁーっ!」って
堂々と、言えるから。
「すぱん!」って
切れちゃうんだと、思う。

よく言っている、話だけれども。
「認められるかどうかは、
 相手の問題。
 自分で、どうこう、
 できるものでは、ない」
ということだと、思う。

けど。
そう言いきれるには。
『確立された、自分』
というものが、
必要なんだと、思う。

あたしとは、
違う人種の、ようなので。
「好きにしてください、
 勝手にどうぞ」

で?
いつになったら、あの件、
返事、くれるの???
あと、「診断がついたら、最後」
死ぬまで、いや、死んでも、
治らない「病気」って、
ちゃんと世の中に、あるけどね。

…。
『アルコール依存症』って、
言うんだけど、ね。




「おしまいにする」
って言うんだったら、
「ちゃんと幕、引けよ」
なに?少しとは言え、
続けるのー?
みっともねー。
江戸っ子のあたしに
言わせてもらえば、
『野暮の極みだね、まったく』