王子駅の改札を出ると、私はいつものように右へ曲がった。すぐ目の前に、都電の乗り場がある。土曜日の昼間、都電はそれなりに混んでいるので、都電の中ではなく、乗り場入り口の臨時改札でカードをかざした。
 目指している場所は、停留所ではたったひとつ。けれど、歩くとなると登り坂を延々と登ることになる。私は都電を使うことが多かった。
 車にもまれながら走るうえに、坂もきつい。都電は時間をかけて、「飛鳥山」についた。ここから5分もかからない場所に、「滝野川のおじさん」のアパートがある。
 「滝野川のおじさん」と言ったが、私との血縁関係はじつは私はよく知らない。母方の血縁関係は複雑で、一度調べたけどよくわからなかった。ただ、幼いころから遊んでくれたり、たまにおこづかいをくれたりしていたので、「滝野川のおじさん」と呼んでいた。
 おじさんのアパートに行く理由は、もちろんおこづかいと言う現実的なものもあったが、「秘密を守ってくれる」貴重な相談相手だからだ。今はすっかり丸くなって、私とやさしく話をしてくれるが、どうやら以前は、私と同じ「計画」を立てていたようだ。しかも、私の「計画」よりもっと大規模なものだった。
 路地に入るところで、おじさんの部屋に電話をかけた。部屋に入る前に電話をかける、こうしないとおじさんはいくらドアを叩いても鍵をあけてくれない。呼び鈴はついているけど鳴らない。なぜそうなっているのかは、よくわからない。
「はい」
 おじさんは電話に出るときは、「はい」としか言わない。私は構わず喋りだした。
「幸です。いつもどおり、近所の路地にいます」
「さっちゃんかぁ。いいよ、いつでもおいで」
「では、すぐに伺います」
「『うかがいます』と来たかぁ。さっちゃんらしいなぁ。まぁ、気軽においで」
 そして電話が切れた。私は路地に入り、よくある木造アパートの外階段を上って、一番奥、おじさんの部屋の前へ来た。そして、トントン、一呼吸おいてからもういちどトン、とドアをノックした。…これは、私が訪ねたという合図。ひとりで部屋を訪ねるようになったとき、おじさんが教えてくれた。ドアはすぐに開いた。
「やぁ、いらっしゃい」
「おじゃまします」
 おじさんの部屋は、いろいろな本や新聞が乱雑に積まれている。おじさんの部屋でしか見たことがない新聞もある。私は、数少ない空いたスペースの中から、窓際の畳の上に座った。
「おこづかいのおねだりじゃない、と見たな」
「よくおわかりで」
「はっはっは、まぁ固くなさんな。おじさんの『秘密基地』に来たんだから」
「この間借りた本、続きを貸してくれますか?」
「…読み切ったのかい、さっちゃん?」
「うん」
「…こいつはびっくりした。おじさんのまわりでも、この本の一巻をひとりで読み切れた人はそんなにいないんだよ。…才能としか言いようがないね」
 そしておじさんは立ち上がると、部屋の隅に積まれた本をいじり始めた。積まれた本は、どんな順番なのか、意味があるのかは私にはわからなかった。そして、かなり古い、そして文庫にしては少し大きい本を取り出した。
「思い切って二冊渡そうか?」
「いえ、一冊でいいです」
 本を借りに来るのは口実だから。もちろん、本を読み切ったのは本当。難しかったけど、夢中になったことはうそではない。
「はい」
 おじさんと本の交換をした。私は借りた本をかばんにしまった。
「さて」おじさんはあぐらをかいた。「相談、なんだろう?」
「はい」
「『計画』にほころびでも出たかな」
「いいえ」私は言った。「計画は順調、です」
「さっちゃん、そういう時こそ、用心が必要なんだよ」
「…はい」
「まだ、誰にも言っていないんだろう?」
「もちろんです」
「そういう時がいちばん孤独なんだよなぁ。さっちゃん、冷たいお茶でいいかな?」
 私はうなずいた。おじさんは冷蔵庫から、小さいお茶のペットボトルを二本出してきてくれた。そして一本を私の目の前に置いてくれた。
「おじさんの時は」おじさんはそう言って、一口、ペットボトルのお茶を飲んだ。
「まるで何かにとりつかれたかのように、仲間を作って、すぐ行動に移したんだよ。それが良かったかどうか。その点さっちゃんは、用心している。その冷静さが私にもあったらなぁ」
「高校の見学に行ってきたんです」
「ほうほぅ」
「そして、取り掛かりは吹奏楽部にしたんですが、おじさんはどう思いますか?」
「うーん…」
 おじさんは腕組みをして考え出した。そして、
「少し、話してみるかい?」
「はい」
 私は部のだいたいの人数、雰囲気、そしておおよその一年間のスケジュールを話した。
「…観察としてはお見事。そう、よく見ること。一年間の行動予定まで得て来るとは、若き革命戦士、いや失礼した、りっぱな革命戦士としては見事な戦績と見ることができるな」
「これで大丈夫でしょうか」
「おやおや、弱気になったかい?」
「いいえ、そうではありません」私はうつむいた。
「夢と現実、って言うんですか?まだそのあたりがはっきりしなくて…」
「急ぎなさんな」おじさんは言った。
「まず見ること、観察すること。色々な角度から、ひとつのものを見ること。急いだ結果がどうだったかは、おじさんの昔話でよく知っているだろう。もっとも」
 おじさんはたばこに火をつけた。
「さっちゃんは、誰も成功したことがない、もしかしたら誰もやろうとしたことがないことをやろうとしているんだ。迷いがあっても、不思議なところはないな」
 おじさんはたばこを吸いながら続けた。
「そういう時に、頼りになったり、それこそ背骨になってくれるのが『古典』だ。正直な話をすれば、おじさんはさっちゃんを試したんだ。貸した本を読み切れるかどうか」
「すると、がんばって読み進めれば答えがある、ということですか?」
「それはどうかな」
 おじさんはたばこの火を消しながら言った。「急ぎなさんな」
「『古典』は、いろいろな読み方があるんだよ。もちろん、言っていること、すなわち論点ははっきりしたものだ。ただし、それを現実にどう合わせるか。そしてさっちゃんだ。さっちゃんには、さっちゃんなりの『古典からの宝石』を見つけるはずだ。それまでは、不安だろうけど、急ぎなさんな。不安になれば、いつでも来ていいから」
 おじさんは、ペットボトルのお茶を飲みほしてから言った。
「さっちゃんへの答えになったかな?」
 わたしはうなずいた
「さて、それではさっちゃんの好物の、おかめそばでも食べに行くとするかい?」
「はい」
 私の心は、王子駅を出たときから比べると、確実に軽くなっていた。