ごはんたべて。
ネットの海で遊んでいたら、
あたしのような、素人の「ものかき」さんの
作品のページにたどり着きました。

読んでみるとですね…
…ごめん、何が言いたい…?

あたしが文章の先生に戒められた、
「主語と述語がねじれたような文」って
こういうことか、と思った。

三人のおはなしを書いている時は、
頭はフル回転。
「物語」として面白くないといけない。
かつ、文章が「きちんと」していないと、
読後感が悪い。
だから、そうとうに気を使ってる。
かぎかっこの中だったら、
「今誰がしゃべっているのか」が
はっきりとわかるか。
そしてなにより、主述がきちんとしているか。
体言止めしたら、意図がきちんと伝わるか。

日本語って難しいもので、
主語があったら、形容詞やらだらだらと
続いたうえで述語の動詞が来る。
外国語の多くは主語の後すぐ述語の動詞。
英語もそうだし、中国語もそう。
I eat it.
我吃吗。
「私は食べるそれ」
(フランス語は冠詞とか説明がタイヘンなのでパス)
この形式だと、形容詞やらが延々続いても、
「食べる」ことはわかっているので、
文が長くても何とかなる。
けれども。日本語の場合は、
「文末まで読まないと」何なのかがわからない。
延々と長い文は、読み手を疲れさせてしまう。
「何とかどこかで切れないか」
そう悩むこともある。
あたしがよく使う手法、文頭で「さて。」と
「。」で切ってしまうのも、そこで一呼吸させたいから。
そして、「一文に色々盛り込んで」しまうと、
何が言いたいのかわからなくなってしまう。
…さっき読んだ文は、まさにそんな感じ。盛り込みすぎ。

でも。この「日本語の特性」を理解していないと、
「すっきりとした文」は書けないと思う。
残念ながら日本の義務教育では、
「現代文の品詞分解」はやらない。
あたしは中学受験をしていて、
中学受験では現代文の品詞分解が出る。
なので訓練はされている。
そして、新卒の会社はお堅い会社だったので、
「ビジネス文の『文の長さ』」は徹底的に訓練された。
一文が長いと突っ返された。
それも今のあたしを作っている大きな要素だと思う。

あたしはよく文章のことを、飛行機のフライトに例えるけれども、
「一文」自体も、日本語ではフライトだと思う。
述語で「きっ」と着地できているか。
目的地に着地しているか。
無理な飛び方はしていないか。
体言止めなら「さっ」と消えているか。
もやもやが残らないか。
なので、あたしは「やたらと」印刷する。
画面だけではやっぱりムリが出る。
「紙の上で読む」ことで、冷静になれる。

それでも、「無縁の駅」とか、
「ラスト・ステージ」は、自分でも
「恥ずかしくて読めない」んだから、
文章って、難しいネ。

難しいからこそ、取り組みがいがある。
何より、「自分の世界」を作ることができる。
けれども、「文章自体がきちんと成立」していないと、
すべてが台無しになってしまう。

プロでも、アマチュアでも、
それは「ライフワーク」じゃないかなぁ。
つまり、「文章をつくること」

あたしは、ありがたく初期作品は、
「批評」してくださる方に恵まれたので、
その批評は大切に取っておいてある。
戒めにしている。

「身が引き締まる」
文章を書くときって、そういう状態じゃないかなぁ。
画面を見つめて数十秒止まることもある。
こういう文章でもね。

あたしは今、フランス語にお熱だけれども、
「日本語の文章」も、大切にしていきたい。
今なら鈴子・美香・舞由に
いきいきとしてもらいたいからね。

…やっぱり、「文章」って難しいネ。