「おにいちゃん、おはよう!」
「夏歩かー。今、何時なんだー?」
「七時半!!」
「…早いよ」

 八月の最後の週、俺は夏季休暇を滑り込ませて、実家に帰ることにした。何かがしたい、というより、「休みたい」というのが本心だった。行きの電車の中では、縁側で一日寝ているのも悪くないな、と思っていた。実家について、横になっていたら、隣の芳ばあさんの家から、少女が覗き込んでいた。それが、夏歩との出会いだった。俺になついて、よく実家に遊びに来るようになった。そして今朝も、俺のところに遊びに来た。
「一緒に遊べるのも、あと二日しかないんだよー?」
「大人は疲れてるもの。そういうもの」
「つまんなーい!」
「わかったから。着替えるから、ちょっと待ってて」
 俺はパジャマからTシャツとジーンズに着替えた。特に気を使うような場所ではないので、ありあわせの服を鞄に詰めてきただけだ。着替えなんてすぐに終わる。夏歩は実家の飼い犬のジョンと遊んでいるようだ。普段から愛想のない犬だから、夏歩のことも相手にしていないようだ。一方的に夏歩がちょっかいを出して、ジョンが無視している。そんな光景だ。
「夏歩ー。いいぞー」
「やった!」
 夏歩は小走りで俺のそばに来た。
「で、今日は何をするんだ?」
「うーんと…思い出作り!」
「はぁ?」
「たとえばー。おにいちゃんが行った学校、見てみたい!」
「ただの田舎の小学校だぞ?」
「どんな道で、どんな風に過ごしてたか、おしえて!」
「…わかった」
 小学校か。何の変哲もない、田園風景の中の小学校だ。言い方を変えれば、「田舎の小学校」だ。しかし、都会育ちの夏歩には、変わったように見えるのだろう。俺は夏歩と一緒に、小学校へ向かうことにした。
「うわー!景色がひろーい!」
「…畑の中、だからな」
「あの背が高いのは?」
「あ?あれは田んぼ。米を作っている所」
「あっちは?」
「あれは…とうもろこし、だな」
「とうもろこし!」
 俺にとっては特に珍しくはないのだが…夏歩が嬉しそうなので、畑の中に入って行った。
「夏歩、来ていいぞ」
「勝手に入って大丈夫なの?」
「近所がやってる畑だし、俺が子どもの頃は、勝手に入って遊んだり、きゅうりとか食べたんだよ」
「おこられない?」
「たかが子どもが手を出す分には、誰も怒らないよ。昔からそうやって育って来たから」
 俺はとうもろこし畑につくと、とうもろこしを一本折って、夏歩に渡した。
「これが、取れたてのとうもろこし」
「葉っぱがついた、棒?」
「葉をはがしてみな。こうやって」
 俺は上の方から、とうもろこしの葉をはがしていった。夏歩は目を輝かせて見ていた。
「ほら、とうもろこしだぞ!」
「ほんとうだ!」
「ついで、だから…」
 俺はとうもろこしを二・三本取ると、夏歩に渡した。
「帰ったら、母さんにゆでてもらうから、持ってな」
「やった!」
 道に戻ろうとすると、軽トラックがやってきた。畑を作っている、親戚のじいさんだ。じいさんは窓を開けて、俺に向かって言った。
「けえって、きてたんかー!」
「とうもろこし、少し頂きました」
「かまねーよ!今年はたくさん採れたから、百本くらい持っててもいいぞ!」
「いや、そこまでは」
「その娘っ子は?」
「芳ばあさんの孫、だって」
「芳の孫に娘っ子、いだかなー?まぁ子沢山だから、おかしな話じゃねーなー!そいじゃ、別の畑さ行くから」
「おじいちゃん、ありがとう!」
 じいさんは大声で笑うと、クラクションを二回鳴らして、窓を閉めて走って行った。
「ほら、怒られもしなかっただろ?」
「…よかった」
「心配だった?」
「初めて、だから」
「ここに来たのも初めて?」
「それは…」
 夏歩の表情が急に暗くなったので、あえてそれ以上は聞かなかった。
「ほら夏歩、小学校まではまだまだだぞ」
「行こう!」
 夏歩と並んで再び小学校へ向かって行った。林が近づいてくると蝉が鳴いている。子どもの頃から、全く変わらない風景だ。
「蝉がいっぱい…」
「ここを抜けると、もう小学校だ。夏歩、怖いか?」
「だいじょうぶ!おにいちゃんと一緒だから!」
 林を抜けると急にあたりが広がり、小学校の校門が見えた。気にとめることもなく、小学校に入って行った。
「おにいちゃん、入って大丈夫なの?」
「卒業生が思い出して来ただけだから。何も言われないさ」
「ブランコがある!」
 夏歩が走り出してブランコへ行った。俺はそばのタイヤに座って、その姿を見ていた。ふと窓から人の気配がした。
「なんだぁ。遊んでるだけかぁ」
「すいません、お借りしてます」
「狸にしちゃあ昼間だし、おがしいなぁって思っただけだぁ。誰もいねぇから、子どもさん遊ばせていきな」
「ありがとうございます」
 白いサマードレスに麦わら帽子をかぶった夏歩が、ブランコに夢中になっていた。絵にかいたような夏の景色だ。俺はしばらく、夏歩の姿を見ていた。
「おにいちゃん、見ててー!…よい、しょっ!」
 夏歩はブランコに勢いをつけると、飛び降りて着地した。
「おー」
 俺は拍手をしながら夏歩のところへ向かった。夏歩がいなければ、小学校のことなんて忘れていた。「夏休み」という言葉が似合うような、そんな日だった。
 小学校から帰ってきて、母さんに茹でてもらったとうもろこしを、夏歩と食べた。夏歩は一本食べきらないうちに、眠そうな顔をしていた。そして、卓袱台に伏せるように眠り始めた。俺も傍らの座布団を折ると、枕にして横になった。八月の終わりに、こうして昼寝をするのも悪くない。俺はオフィスのことは忘れて、夏歩と昼寝をすることにした。
 気づけば夕方になっていた。夏歩はすっかり眠り込んでいる。悪いかなと思いつつ、夏歩を起こすことにした。
「ほら夏歩、もう夕方だぞ」
「…うん…」
「芳ばあさんが心配するから、そろそろ帰りな」
「明日また来ていい…?」
「午後の汽車で帰るから、それまではいいぞ」
「わかった…」
 名残惜しそうに、夏歩は隣の芳ばあさんの家へ帰って行った。

 翌日、また夏歩は俺を起こしに来た。
「今日は、どこに行きたいんだー?」
「おにいちゃんと、お話がしたい」
 元気の塊だったような夏歩が、少し寂しそうにしていた。
「じゃ、縁側に座ってな」
 俺は麦茶の瓶を冷蔵庫から出して、コップを二個、お盆に取って、縁側に持って行った。
「おにいちゃん…気がついてた?」
「何に?」
「おにいちゃんと一緒に遊べたこと、すごく楽しかった。だから、嘘をつきたくない」
「嘘…?」
 夏歩は脇に置いていた鞄から、紺色の手帳を出して、俺に渡した。…生徒手帳?写真は…夏歩だ。夏歩だけど…詰襟姿の写真だった。
「あゆむ…くん…?」
 写真から夏歩へ目線を移すと、スカートをつかんで、涙を浮かべた夏歩がいた。
「おかあさんに…七月中に夏休みの宿題終わらせたら…おばあちゃんの家に…行きたいって…。そして、おじいちゃんとおばあちゃんに、お願いしたの…。女の子に、なりたいって」
 俺はやっと気づいた。芳ばあさんの孫の一番下の子だ。歩。確か前に帰ってきた時も、遊びの相手をした覚えがある。俺は夏歩に向かって、こう言った。
「歩君とは何回か遊んだけど、この夏に一緒に遊んだのは、夏歩。それだけだ」
「ヘンじゃなかった?」
「この夏の思い出は、夏歩と遊んだ。それだけだ。俺も色々思い出したし、何より、楽しかった」
「おにいちゃん…」
 俺の胸の中で、夏歩が泣いていた。俺は泣き声を聞くことしかできなかった。

「主任!何考え事しているんですか!」
 俺は日常に戻った。いつものオフィスで、仕事に追われていた。パソコンには作りかけのグラフが出たまま、この夏のことを思い出していた。
「そのデータの分析、今日中ですからね!」
 部下に言われて再びパソコンに向かった。そろそろ午後四時半。ふと俺は携帯電話を持って、廊下に出た。相手は…夏歩だ。
「おにいちゃん!」
「俺だ。今週末、開いてるか?」
「それって、デート?」
「夏歩がそう思うのなら、そうかもな。けど俺にとって、夏歩は幼すぎるな」
「いじわる!」
「一緒に遊園地に行こうと思ったけど、いじわるなら、止めておくかな」
「えー!ごめんごめん。一緒に遊園地に行きたい!」
「帰ってからどうしてる?」
「つまんないけど…おにいちゃんが『夏歩』って呼んでくれるだけで、嬉しい」
「じゃ、遊園地で飲み物でも飲みながら、夏歩の愚痴につきあうか」
「なんか、いじわる」
「とりあえず、日曜日の十時、駅前でいいか?」
「うん!」
「また夏歩に会えること、楽しみにしてるからな」
「わたしも!じゃ、日曜日ね!」
 夏休みに会った、幻の少女は、こうしてお互いに少しずつ、現実になっていた。俺の前では、夏歩は夏歩だ。色々あるだろうけど、俺の前では自由にさせてあげたい。そう思いながら、自動販売機で缶コーヒーを買い、デスクに戻ることにした。俺は嘘は言っていない。…夏歩に会えるのは、楽しみだからだ。