【放談住宅 2021/02/14】
昨日書いた、
『村上春樹クサイ、謎のアレ』
ね。
非常にありがたーい、ありがたーい、
ありがたーい、
コメントを頂いた訳でございます。
確かに、ねぇ。
読み返している時に、思った。
「かなり…こなれて、来てない?」…と。
一太郎の文章校正機能、
モード「小説」で、
指摘されたのは「3箇所」
うち1箇所は純粋に「打ち間違い」
残りの2箇所は、「それ、わざと」
なので、無視指定かけた。
うん。「よっこいしょ」は明らかに
文体に合ってないからね。
「原稿用紙3枚半書いて、
指摘箇所が3箇所、
うち2箇所は意図した記述、
1箇所は打ち間違いなので、修正」
案外、成績いいと、思うんです。
『「だ」と「です・ます」』が
混ざってないとか、
表現のトーンがバタバタしてないとか、
そういうことだと、思うんですよ。
ひとつは、
「ここを、書いて、いるから」
ここを書いている時は、
「誰か、相手が、いる」と思って
書いてますからね。
投稿前に、プレビューかけて、
「伝わるかな?」ということは、
意識している『つもり、です』
ここは、
「平易な言葉で、
難しいことも、扱う」が
実は裏のテーマだったりするので、
「難しいことを、扱った」としても、
文章や言葉的には、難しくないでしょ?
完璧に、自己満足だけど。
そして、もう一つは。
…LibreOffice WriterとMS-IMEという、
「まったく小説を書くことに、向いていない」
道具を使って、書いていたからでは
ないかと、思ってます。はい。
紙に打ち出す→赤、入れる→直す
紙に打ち出す→赤、入れる→直す
紙に打ち出す→赤、入れる→直す
最低3~4サイクルしないと、
「整わなかった」ね。
『原稿用紙五枚縛り』では。
『自分が納得して、読みとおせる』には、
・表現が、整っていて
・句読点の位置が、適切で
なにより、
・違和感が、ない
『この3つを整えるための、
文章の、仕上げ磨き』
みたいなことだと、思うんですよ。
そして、LibreOffice WriterとMS-IMEは…
『日本語的なことは、
なーんも、指摘してくれないから』
辞書と赤ペン使って、
自分できちんと、疑ってかかって、
赤入れしないと、ダメなんですわ。うん。
なので、結果として。
「書いている段階で、
違和感や句読点の距離を検討して、
その場で、書き直す」ことが
出来るようになってきたんじゃ…
ない…かなぁ…?と、思うんです。
もう一個、手前。
「そもそも、
違和感が出るような書き方は、しない」
これも…「出来る」と言ってしまっては、
成長が止まってしまうけど、
「数値化」できたら、
結構高くなってきてると、思うんです。
いや、アレを紙に打ち出して、
いざ、読み返したら。
「なんか、するっと、読み切れちゃった」
打ち間違いは、
「見事、自分がだまされてる」からね。
一語一語、丹念に拾わないと、
「見つからない」のよ。うん。
赤入れの時、結構キツいよ、ね。
で、やっと、
「全体を見通して、
適切かどうか、検討できる」
訳だと、思うんです。
なので、期待せずに、
一太郎の文章校正機能かけたら…
『ちゃんと、見つけて、くれるんだ!』
楽になったけど…いやいやいや。
「頼っちゃ、ダメだよね」
きちんと、正しい姿勢で、
真面目に、正直に、文章と向き合うことは、
絶対にやめてはいけないと、思うんです。
なので、文章校正機能で指摘されたら、
『赤点、食らった』位に思わないと、
ダメ、なんじゃないか…と、思うんです。
もちろん、「意図した、表現」が
引っかかる…と、言えど。
『言い換えを行う、最高のチャンス』
でも、あるからね。あー、はいはいはいはい。
『あー、はいはいはいはい…?』
そう。実はYouTubeで、
「この方たちの、漫才」を見て、
『その視点で、とらえるか!』
『そう、切り返すか!』
『そして見事、オチが、つくんだ!』
「そういうことね、見て考えるって、
大切ですよね」
「そうだそうだそうだそうだ!
大切なんだって!ね!」
『昭和のいる・こいる』の、お二方。
『夢路いとし・喜味こいし』の、お二方。
昭和のいる・こいるの、この世界は。
「のいるが真面目に、話す」
「こいるが適当に、受け流す」
ように、見えて…
「こいるが、受け流し過ぎる寸前で、
今度は流れをつかまえて、
言葉を切り替えて行く」
見事。見事。…だよねぇ。
そして…
このね、夢路いとし・喜味こいしの
やりとりは、見事だよ。
「新聞紙を、引いて」
「朝刊と夕刊と、どっちを引くの」
ここまず、「疑わない」でしょ?
で、七輪を出してくるでしょ?
「まん丸ぅ作って、
ちいさいコレ、入り口があって、
誰が出入りするのか」
あの七輪の、あの扉を、
「出入りすると、思いつく」
何回見てもねぇ、
「やられた」と、思う。
まー…
このお二方に、勝てる訳は、ないけど。
『言葉遊びって、
すごく大切だと、思うんです』
なぜなら。
『書こうとした時に、
適切な言葉を出すには。
自分の中に語彙として、
大量の言葉を持っていないと、
出てこない』
から。
『あたしが言うと、偉そうですが』
哲学の「真理を疑い、追求する」
という、姿勢は。
「自分の言葉を疑い、追求する」
という、「ものかきの、姿勢」
に通じるものがあると、思うんです。
さーて。
『まだ降りるはしご、残ってる?』
残ってる、らしいので。
『バカは高いところから、
降りたいかと、思います。
降りても、バカは、バカです』
さて…なんか、食べよ。
(316号)
昨日書いた、
『村上春樹クサイ、謎のアレ』
ね。
非常にありがたーい、ありがたーい、
ありがたーい、
コメントを頂いた訳でございます。
確かに、ねぇ。
読み返している時に、思った。
「かなり…こなれて、来てない?」…と。
一太郎の文章校正機能、
モード「小説」で、
指摘されたのは「3箇所」
うち1箇所は純粋に「打ち間違い」
残りの2箇所は、「それ、わざと」
なので、無視指定かけた。
うん。「よっこいしょ」は明らかに
文体に合ってないからね。
「原稿用紙3枚半書いて、
指摘箇所が3箇所、
うち2箇所は意図した記述、
1箇所は打ち間違いなので、修正」
案外、成績いいと、思うんです。
『「だ」と「です・ます」』が
混ざってないとか、
表現のトーンがバタバタしてないとか、
そういうことだと、思うんですよ。
ひとつは、
「ここを、書いて、いるから」
ここを書いている時は、
「誰か、相手が、いる」と思って
書いてますからね。
投稿前に、プレビューかけて、
「伝わるかな?」ということは、
意識している『つもり、です』
ここは、
「平易な言葉で、
難しいことも、扱う」が
実は裏のテーマだったりするので、
「難しいことを、扱った」としても、
文章や言葉的には、難しくないでしょ?
完璧に、自己満足だけど。
そして、もう一つは。
…LibreOffice WriterとMS-IMEという、
「まったく小説を書くことに、向いていない」
道具を使って、書いていたからでは
ないかと、思ってます。はい。
紙に打ち出す→赤、入れる→直す
紙に打ち出す→赤、入れる→直す
紙に打ち出す→赤、入れる→直す
最低3~4サイクルしないと、
「整わなかった」ね。
『原稿用紙五枚縛り』では。
『自分が納得して、読みとおせる』には、
・表現が、整っていて
・句読点の位置が、適切で
なにより、
・違和感が、ない
『この3つを整えるための、
文章の、仕上げ磨き』
みたいなことだと、思うんですよ。
そして、LibreOffice WriterとMS-IMEは…
『日本語的なことは、
なーんも、指摘してくれないから』
辞書と赤ペン使って、
自分できちんと、疑ってかかって、
赤入れしないと、ダメなんですわ。うん。
なので、結果として。
「書いている段階で、
違和感や句読点の距離を検討して、
その場で、書き直す」ことが
出来るようになってきたんじゃ…
ない…かなぁ…?と、思うんです。
もう一個、手前。
「そもそも、
違和感が出るような書き方は、しない」
これも…「出来る」と言ってしまっては、
成長が止まってしまうけど、
「数値化」できたら、
結構高くなってきてると、思うんです。
いや、アレを紙に打ち出して、
いざ、読み返したら。
「なんか、するっと、読み切れちゃった」
打ち間違いは、
「見事、自分がだまされてる」からね。
一語一語、丹念に拾わないと、
「見つからない」のよ。うん。
赤入れの時、結構キツいよ、ね。
で、やっと、
「全体を見通して、
適切かどうか、検討できる」
訳だと、思うんです。
なので、期待せずに、
一太郎の文章校正機能かけたら…
『ちゃんと、見つけて、くれるんだ!』
楽になったけど…いやいやいや。
「頼っちゃ、ダメだよね」
きちんと、正しい姿勢で、
真面目に、正直に、文章と向き合うことは、
絶対にやめてはいけないと、思うんです。
なので、文章校正機能で指摘されたら、
『赤点、食らった』位に思わないと、
ダメ、なんじゃないか…と、思うんです。
もちろん、「意図した、表現」が
引っかかる…と、言えど。
『言い換えを行う、最高のチャンス』
でも、あるからね。あー、はいはいはいはい。
『あー、はいはいはいはい…?』
そう。実はYouTubeで、
「この方たちの、漫才」を見て、
『その視点で、とらえるか!』
『そう、切り返すか!』
『そして見事、オチが、つくんだ!』
「そういうことね、見て考えるって、
大切ですよね」
「そうだそうだそうだそうだ!
大切なんだって!ね!」
『昭和のいる・こいる』の、お二方。
『夢路いとし・喜味こいし』の、お二方。
昭和のいる・こいるの、この世界は。
「のいるが真面目に、話す」
「こいるが適当に、受け流す」
ように、見えて…
「こいるが、受け流し過ぎる寸前で、
今度は流れをつかまえて、
言葉を切り替えて行く」
見事。見事。…だよねぇ。
そして…
このね、夢路いとし・喜味こいしの
やりとりは、見事だよ。
「新聞紙を、引いて」
「朝刊と夕刊と、どっちを引くの」
ここまず、「疑わない」でしょ?
で、七輪を出してくるでしょ?
「まん丸ぅ作って、
ちいさいコレ、入り口があって、
誰が出入りするのか」
あの七輪の、あの扉を、
「出入りすると、思いつく」
何回見てもねぇ、
「やられた」と、思う。
まー…
このお二方に、勝てる訳は、ないけど。
『言葉遊びって、
すごく大切だと、思うんです』
なぜなら。
『書こうとした時に、
適切な言葉を出すには。
自分の中に語彙として、
大量の言葉を持っていないと、
出てこない』
から。
『あたしが言うと、偉そうですが』
哲学の「真理を疑い、追求する」
という、姿勢は。
「自分の言葉を疑い、追求する」
という、「ものかきの、姿勢」
に通じるものがあると、思うんです。
さーて。
『まだ降りるはしご、残ってる?』
残ってる、らしいので。
『バカは高いところから、
降りたいかと、思います。
降りても、バカは、バカです』
さて…なんか、食べよ。
(316号)