あの…まぁ。
幸の話は、そういう話なんで、
そら、「あのお方」が出てこないのは
『コーヒーを入れないクリープなんて!』
位の、軽いノリで書いたものです。
「気が散って作品が完結できない」
どこかで聞いたような作家も出てきます。

…錦糸町の北口に、
民主書店なんて、需要あるのかしらね。
原稿用紙6枚

-----
 おじさんと一緒に、錦糸町駅の北口改札を出た。外に出ると、クロワッサンみたいな大きな像があった。
「さっちゃん、このあたりは碁盤の目だから、どこを曲がるかはしっかり覚えておくんだよ。あとで地図を描いてあげるから」
 横断歩道を渡って、路地に入って、いくつか角を曲がると、古本が乱雑に積まれている書店があった。看板は、「学導舎書店」と何とか読めるくらいかすれていた。おじさんは入り口の扉に手をかけると、「よっこいしょ」とかけ声をかけて扉を開けた。
「あ、滝野川の先生。用意させてもらいました」
 丸眼鏡をかけた、おじさんより十歳位若い、やさしそうな人が奥に座っていた。がっしりなのか、ぽっちゃりなのか、服の上からはわからなかった。たぶん、この人がこの店のご主人なのだろう。
「あのシリーズは、O書店ではなく、I書店になっちゃいますが、いいでしょうか」
「仕方ないな。けど、揃っただけありがたい。よく店にあったな」
 ご主人とおぼしき人は、丸眼鏡をかけたり外したりしながら、本や雑誌を机に並べ始めた。
「さすがにもう店には置いてないです。今回は、押上の先生が動いてくれました。あの先生、普段は面倒なことしないんですけど、事情を話したら、二つ返事で一気に集めてくれました」
「それはお礼をしないといけないな」
 おじさんは腕まくりをすると、並べられた本や雑誌をぺらぺらとめくっていた。
「それは大丈夫ですよ。押上の先生、また興味の分野が変わって、時間があるみたいですから」
「あの人も長続きしないな。例の学園ものも、完結していないんだろう?」
「本人は書く、書くと言ってますけどね」
 おじさんは手にしていた本を机に戻すと、私に前に出るように手を出した。
「紹介しよう。有望な革命戦士だ。そうだな、馬込の戦士、とするか。これからここに世話になると思うから、よろしく頼む」
「学導舎の主人です」
 ひょこっと頭を下げた丸眼鏡の人は、やはりご主人だった。そして、名刺大のカードを手渡してくれた。
「欲しい資料があれば、まず電話してください。物によっては時間がかかりますが、ほとんどは翌日には揃います。日曜日はお休みです」
「たとえば今回みたいに、おじさんの同志が動いてくれるんだよ。もちろん、おじさんが動くこともあるがね」
「そういえば、雨が降るようです。帰りは雨に気を付けてくださいね」
「しかし、あの先生は、気が向いたときはとにかく早いな。すぐ気が散るのが困ったところだがね」
「他のことに気を取られないうちに、揃えてきてくれて助かりました。滝野川の先生、いつもどおり月末払いにされますか?」
「いつも悪いね」
「自分も商売ですから。先生は間違いなく払ってくれますから、安心です」
 おじさんは店の奥をのぞきこんだ。
「例の物は用意できたかな?」
「こういう物こそ、押上の先生ですよ」
 ご主人は店の奥から暗い赤の、女性向けのボストンバッグを出してきた。そして本や雑誌をボストンバッグに器用にしまい始めた。
「馬込の戦士はレディだからね。それにお嬢様育ちだから、集まった本を親に見られたら大変だろうから」
「このバッグは押上の先生からのサービスだそうです。何でも、滝野川の先生には借りがあるって言ってました」
 ご主人はバッグのファスナーを閉じた。
「ああ…そういえば忘れていた。法律関係の本を何度か届けたんだ」
「押上の先生は変わってますからね」
 ご主人はボストンバッグをおじさんに手渡した。
「レディに持たせる訳にはいかない。浅草橋駅まで、おじさんが持っていよう」
 ご主人は笑うでもなく、無表情のまま私に言った。
「入りづらいですが、気軽に来てください。今回揃えた本の他に、ソ連、中国史、いろいろな占いの本もありますから」
「さすがは神秘学研究家だな、ご主人」
 おじさんがそう言うと、二人は声を上げて笑った。
「一人で来ても大丈夫ですか?」
 私はたずねた。毎回おじさんの手をわずらわせたくないから。
「大歓迎ですよ。入りづらいのがアレですけど」
 やはりご主人は眼鏡をかけたり外したり忙しい。けど、悪い人ではないみたい。資料に困った時には、ここを頼ればいい。さすがはおじさん、いいお店を知ってる。
「雨は降らないみたいですね」
 ご主人が言った。
「助かるな。ありがたい限りだ」
 おじさんが答えた。私は、まるで自分の秘密基地ができたような気がして、嬉しかった。