【放談住宅 2020/11/27】
このネタねぇ。
一応、抱いて、
あっためてはいたのよ。
そーろそろ、孵化するんじゃないか、と、
「こんこん」と、やってみます。

『訳わからん、じじぃ』って、
世の中に存在しますよね。
…するんですよ。残念ながら。
春日部市議会のLGBT差別発言の
井上英治みたいに、ね。
この手の、訳わからんじじぃは、ね。
「古典」とか、「難しい本」
…もっと行こう。
「古典で、難しい本」を引用して、
自分を「権威づける」傾向があるのね。
が。『本の解釈が、ダメダメの、ダメ』で、
底が浅いのを、自ら証明してる。
けど。「それに、気付いていない」
なんで、気が付かずに、
そんなことができるのか。
…という、「一考察」です。

まー、どっかに、いたんですよ。
軽く難しい本。そしてじじぃ。
熱心なんでしょうね。本に線が引いてある。
…が。
色は違えど、
「全部の行に、線が引いてある」
ダメだこりゃ。線を引いてる意味がない。
軽くこの話をしたところ、
瞬く間に「噂」となり、
「全部の行に、線を引いてある本」を
見た人は、静かに肩を震わせる。
なんてこと、ありました。

難しい本。一定以上の難しい本。
なんでもいい…んだけど、
サンプルとして、
マルクスの「資本論」
ハイデッガーの「存在と時間」
岩波文庫と、ちくま学芸文庫が手に入れば、
手には、入ります。
「ちと、高いけど」
(某書店ので、「資本論」読みたければ、
 巨大書店か、民主書店へ。
 最近出版されたアレに関してはー。
 中央委員会に聞いてみて)


えー、白状します。
どちらとも、あたしは
「途中で止まっています」
存在と時間に関しては、もう挫折という感じで。
この「挫折」のメカニズムが、
結構重要なのではないか、と。

はからずも、両者ともドイツですね。
ドイツの学問ったら、
「難しいことを、
 より難しく、考える」と、
言えなくもないです。
多少「かみ砕いてある」
ハイデッガーの「形而上学入門」でも、
読むのは、やっぱキツい。
飛行機の海外線、ヒマだから、と
読む本ではない…と、機上で思いました。

この手の本、ね。
しおりがー、結構な枚数、必要。
3~4枚?
1枚は、読んでる所、でしょ。
2枚目は、読んでる所の論点が
提示されているところ。
3枚目は、巻末もしくは章末の
「注記」「解説」のところ。
なんだかんだで、もう1枚、と。
『中央競馬のはずれ馬券が、
 薄くて丈夫でオススメ!』
地方競馬は、やんないから、わかんない。

まず、ここです。
難しい本は、難しいから、
行ったり来たり、するでしょ。
時によっては、辞書・辞典も活用して。
こう、「軽いエッセイ」みたいに、
『新幹線が、名古屋へまっしぐら!』
という、進み方ではなく、
ありゃ。この話の提示はどうだったっけ?
みたいに、「行ったり来たり」
時によっては、
うぁ!完全なる勘違い!
自分の理解だと、こうは展開できない!
と、1章まるごと、戻ってみたり。
『戻れる場所のためにも、
 しおりがいくつも、必要なんですよ』
基点に戻れるように、ね。

「この読み方」ができる人であれば、
常に、頭の反対側で、
「理解できているか」を、疑ってる訳です。
『この一文、納得ができない!!』と、
一文の解釈のために、一日費やしたり、ね。
自分の解釈を、常に疑いつつ、
理論展開を追う訳ですから、
『2倍以上、疲れるんですよ』
疲れた。頭、追い付かないーっ!
『挫折』は、自分の理解を疑い、
自らの基礎知識や理解力の
限界を知ったから、と、言えます。
なので、『挫折』したとしても。
「もうちょっと手前からなら、
 アプローチできるのか?」と、
広い思想・思考の世界の中で、
自らの「位置」がわかった、とも
言うことが出来ると…思うんです。

1週間前くらい、だったかねぇ。
こんな話がネットニュースで。
『残念な人ほど、自己評価が高い』
ひらべーったく、言ってしまうと。
『自分の能力を、
 正しく評価できる「能力」が、ない』
だから、「やったこと」に酔いしれて、
自分の評価は、うなぎのぼりーっ!
…だから『残念』なんだよ、と
言いたくもなるけど、さ。
ある程度「きちんとした」人ならば。
自分の足跡と、結果を評価して、
ここが足りなかった。
こっちも見るべきだった。
…と、『自分にマイナス』つけられるのね。

では。
『もんのすごく、難しい本を読む』
と、
『自己の客観視と、評価』
を、統合してみましょう。
「ある程度、きちんとした人」であれば、
「自分を疑うこと」が、できますから、
難しい本、理解が浅いと思えば、
先には進みません。
「誤った理解が、怖いからね」
欄外に書き込んで見たり、
読書ノートつけてみたり。
かたや、『訳わからん、じじぃ』を含みます、
「残念な人」の場合。
「自分は絶対に正しい」と、
信じ切っておりますので、
「自分を疑うこと」は、しません。
(実は「できません」なんだけど、ね)
じゃ、難しい本で、
「理解できなかったところ」
どうすんの?と思うでしょ。
そりゃー、
「理解できないことが、理解できない」から、
『「俺の解釈が正しい!」と、
 他人から見たら、「謎理論」でしかない、
 「独自解釈」で、がんがん進みます』
理解できないところは、
「こうだ!こうに違いない!」と、
根拠なく信じ込めるの。すごいよね。
自分のバイアス?入りまくるよ?
だって、
「バイアスに、気付けない」んだもん。
そして、「超特急で、読んだ」
…理論はかみ合ってないし、
そこらじゅう、「落としまくって」
いるんですが、ね。
けど、これを「良し」として、
『自分の権威付け』に、使います。

『誰それという人が!
 何々という本で、言っている!』
そして「謎解釈」が、出てきます。

その分野、
ある程度知っている人ならば、
まず、「はぁ?」と、思います。
時によっては、「原典」で
確認したりします。
『うん、この人、読めてないね』

でね。
「議論できる」ということは、
時によっては、自分が負けるでしょ。
『あー…
 そこは、そう理解するのかー。
 確かに、自分の解釈だと、
 そこだけ浮いちゃう』
ありがとう!なんて、議論の相手と
仲良くなったりして、ね。
でもね。
「謎解釈」してくる、じじぃだと、
『絶対、負けない』という
「謎自信」が、あるから、
『破綻した理論』でもいいから、
とにかく!バリアを張りまくるの。
…「議論にならない」と、人は去ってゆく。

議論で負けることは、
決してマイナスではないのに、ね。
むしろ、「見落としていた視点」を
知ることができるから、
プラス以上なんだけど、ね。
けど。『訳わからん、じじぃ』は、
「負けた」というところしか、見えない。
負けた…つまり、相手が優位に立った。
『そんな状態、信じられないし、
 耐えられない!!!!!』
さぁ!「謎理論」「破綻した理論」が
これでもか!!と、出て来るぞ!!
…こうなったら、逃げようね。
不毛だから。意味ないから。
「座布団かぶって、逃げる」が
いいのではないか、と。

つまり。
『訳わからん、じじぃ』の場合。
『権威付けとして出てくる理論には、
 意味など存在しない!!』
だって。理解できてないし、
理論のつじつま、合ってないし。
『俺はこんなに、頭がいいんだ!!』
…と、『馬鹿をさらしている』

そして周囲は、
「あーまたー…はいはいはい」と、
半ば「休憩時間」になる。
そしてじじぃは、周囲が取り合わないから、
『こんなことも、わからないのか!!』
と、もーっと気を吐くという、図式。
…わかりたくも、ねぇよ。
そんな「破綻した理論」なんて!!

けどね。このタイプのじじぃ、
ごく一部の人には、大好評です。
だって。『頭良さそうに、見えるから』
良くわからないけど…
すごいんだろうな!!的に、ね。
『同レベルだけで固まるから、
 その集団ごと、避ければよろしい』
すごい迷惑だけど、
ある意味便利でもあります。
ついでに。「同類」も、仲良くなるから、
あー、あの人、仲良くなった。
うん。『逃げよう』
勝手に固まってくれるからね。
ある意味では、わかりやすい。
最初は「痛い目」を見るけど、
その後は…便利に使えばいいの。うん。
言い方悪いけど、
『馬鹿発見器』として。

『しょーがないんだよ』
だって、この手のじじぃは、
『自分が見えて、いないんだから』
自らが作った王国で、
「はだかのおうさま」に、なってるんだから。
『立場上、
 間違いを指摘しなければ、いけない人』は、
相手がバカなの、わかってるんだけど、
『立場上、きちんと手順を踏んで、
 相手の間違いを指摘しなければならない』
これやっとかないと、結果はどうであれ、
『認めたこと』に、なっちゃうからね。
疲れるぞー!これは。

そう。
『誰も幸せには、なっていない』
正しいと思っている、
本人と取り巻きを、除いては、ね。

今あたくしは。
『頭良くないと、いては、いけない』
部署に、いますが。
権威を使う人…いない、いない。
「さらっ」と、ホワイトボードに、
こんな感じなんだよね、と、
ひゅひゅひゅ、と、図にしてみたり。
『なるほどぉっ!』
腹の落ち方が、まったく違います。
「ただ、これもねー…
 そこへの切符が手に入るか。
 切符がないと、入れないからねぇ…」
あたしは『庶務』なので、
実務やんないから、バカでもいいんです!!
…「入門、しないー?」と、
「えらいひと」に言われて、
冷や汗かいてますが。「いやいや、いや」

最後に、あたくしの祖父の言葉を。
「高まる人は、自分の能力を知っている。
 知っているから、偉ぶらない。
 そういう人は、周りが引き上げる。
 すると、より高い人と触れ合うので、
 自然と自分が、高まる。
 そしてまた、周囲が引き上げる。
 新たな高みに登るので、
 触れ合う人も、また高まる。
 そして自分も、また高まる。
 何より、何事にも代えがたい、
 自らが高まって得た、
 俯瞰した視点が持てる。
 偉ぶっていいことは、何もない」
…と、『偉そうなことを言って』
満足して、寝たいかと思います。
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