また、どこぞから。
---引用開始---
いや科学や学問ってそういうものでしょう?何もかも理論で説明できる、ようなシロモノではなくて、「わかる」「わからない」をちゃんと判定できるのが、方法の前提です。「わからない」ものを「わかる」なんて言うのは、それこそ誤りの本でしかないですからね。
---引用終了---

『わかって、ないね』

「わかる」か「わからない」かを
疑い、追及するのは、
「心理学」「医学」
もしくは「哲学」の分野。

で、「科学」に関しては、
『反証可能性』があるのが、前提。
反証可能性は…んー。
「前提と、同じことをやって、
 同じ結果が得られるかどうか、
 テスト(反証)ができること」
なので、「たまたま、そうなった」は、
テストのしようがないので、
『反証可能性が、ない』
ので、『科学では、ない』
「水素と酸素から、水を作る」
…中学校でも、できるけど。
2H2 + O2 → 2H2O
誰がどうやっても、
こうとしか、なりようがないし、
水素と酸素とエネルギーがあれば、
「水は、必ずできる」ので
『反証可能性が、ある』
ので、『科学』
「あさがおの種から、芽が出る」
成功の保証はされていないけど、
(種が生きているかどうかは、
 別の問題)
あさがおの種を、
適切な季節に土に埋めて、
適切な水と光を与えれば、
「芽が出るか出ないかは、
 実験することが、できる」
つまり『反証可能性が、ある』
ので『科学』
この、『反証可能性』を
科学の基本条件と見なしたのが、
カール・ポパー

なので、
「わかる」「わからない」
と、「科学」を
同一平面でとらえるのは、誤り。
方法の前提「以前の、問題」
「科学で得られた結果を、わかるかどうか」
これは、「科学」ではなく、
「心理学」もしくは「医学」の分野だね。
「わかる」に疑いを持つなら、「哲学」

「理論で説明できる」
「理論で説明できない」
これに関しては、
「同じことをやって、
 同じ結果が得られるかどうか、
 試すことができ、
 再現できる、もしくは再現できない」
のであれば、『科学』
実験で得られた結果に対しての
理論化は、あとでも、かまわない。
実際、「医学」の世界では、
理論化された→誤りだった
理論化された→誤りだった
コレを延々繰り返している、と、言えます。
ただ、
「理論が正しいかどうか、
 テスト(反証)をすることが、できる」
のであれば、反証可能性があるので、
もちろん、『科学』

そして「哲学」は、試験(反証)が
できないので、『科学では、ない』
が、「学問では、ある」

提示:事象Aが、Bに推移する
「事象AがBに推移することが、わかる」
これでは、提示を満たしたことにはならない。
単なる「人間の内面の、問題」
「事象AがBに推移する」「わかる・わからない」
ここを正しく、
分けてとらえられないのであれば…
「認識」だから、「心理学」か「医学」
もっと真理を求めたければ「哲学」だね。

『「わかる」「わからない」を
 ちゃんと判定できる』
「わかる」「わからない」を
出してしまっては、
「認識」の問題になってしまうので、
「心理学」か「医学」「哲学」
「前提が成り立つかどうか、
 ちゃんと判定できる」
これであれば、学問の一分野と言える。

なので、引用した文章では、
「心理学」「哲学」「科学」「医学」を、
ごちゃまぜに書いているので、
『そもそも前提が、成り立ちません』
そして…

『誤りの』ではなく、
『誤りの』!
誤りの本では、
「誤りを書いた、本の、ことだ!」
小学校の国語から、やりなおし!

『わかってる「フリ」、
 やめたほうが、いいよ』
「フリ」でないのであれば…
『とどめを刺すのは、やめとく』